ちむどんどんの比嘉暢子(黒島結菜さん)が、鶴見に住んだ理由は、横浜市鶴見区には京浜工業地帯を擁し、多くの沖縄県出身者がすでに仕事を従事していたからでしょう。
この記事は朝ドラ「ちむどんどん」のあらすじやネタバレにかかわるかもしれません。ご注意ください。
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比嘉暢子が暮らす鶴見にはすでに沖縄県出身者が住んでいた
東京で西洋料理のシェフとして働き始めた比嘉暢子が、なぜ鶴見に住み出したかなどの詳しい経緯は、ドラマのストーリーを実際に見なければ分かりません。
ただ暢子のように1970年前後に東京へ出てきた沖縄県出身者が、横浜市鶴見区に多く住んでいたことについてはそれなりの理由があったようです。
デイリーポータルZと鶴見区のタウンニュースの話を総合すると、沖縄県出身者が横浜市鶴見区に多く住んでいた理由として、主に以下のことがあげられます。
- 20世紀における沖縄県の主な産業はサトウキビを中心とした農業だったが農家の収入は安定しなかった
- 横浜市鶴見区には日本有数の巨大工業地帯である京浜工業地帯が存在し、人手を必要としていた
- 1900年代ごろから一部の沖縄県出身者が鶴見に職を求めて移住し始めていたが、高度経済成長期にはその数が飛躍的に伸びた
- 沖縄県出身者が自らビジネスをはじめるためには、同じ土地にかたまって独自の互助組織を作る必要があった
ちむどんどんのあらすじを読んでいると、ヒロインの比嘉暢子は、のちに東京で沖縄料理を提供するお店を出すことになっています。
自ら東京にお店を出すとなると、ある程度まとまった額のお金が必要になります。この出店計画には、暢子が鶴見で出会う人たちが多いに関わってくるのではないでしょうか。
沖縄県人会会長・平良三郎(片岡鶴太郎さん)に注目
またデイリーポータルZの記事を読んでいるとそのタイトルのとおり、鶴見の沖縄タウンには一言では語りきれないほどの苦難の歴史があったそうです。
NHKが放送するドラマは時代考証や風俗考証にも力が入っています。ちむどんどんに登場する人物で、沖縄県人会会長の平良三郎(たいらさぶろう・片岡鶴太郎さん)の口から鶴見区と沖縄県出身者の歴史が語られるかもしれません。