最高裁家庭裁判所設立準備室とは何か
虎に翼で佐田寅子が1948(昭和23)年に配属された最高裁判所家庭裁判所設立準備室とは、実際に1948年10月から12月31日まで最高裁判所に存在した家庭裁判所設立準備室ではないかと考えられます。
実在の家庭裁判所設立準備委員会の責任者は、虎に翼に登場する汐見圭のモデルとなった市川四郎と言う人物です。市川四郎は、物静かで事務処理能力に優れ、家庭裁判所が発足した1949年1月1日には最高裁家庭局第一課長として、「家庭裁判所の父」と言われる宇田川潤四郎を影から支えることになります。
汐見圭のモデル 市川四郎
家庭裁判所の父 宇田川潤四郎とは
家庭裁判所設立準備室と家庭裁判所設立準備委員会
以降は虎に翼のネタ本とも言える「家庭裁判所物語」の内容を参考にさせていただきます。
全国に設置された家庭裁判所設立準備委員会
1948年9月20日に全国の地裁に「家庭裁判所設立準備委員会」を設けると言う規則が作られましたが、この規則に基づいて作られた組織が「家庭裁判所設立準備委員会」です。
「家庭裁判所設立準備委員会」の役割は裁判所や検察、弁護士、地元の有識者をメンバーにして、全国にある地方裁判所で、家庭裁判所の設立に向けて、各機関の協力を得ながら準備を進めると言うものでした。
家庭裁判所設立のもう1人の立役者・五鬼上堅磐 最高裁事務総局次長
といっても当時、最高裁判所長官の三淵忠彦は下痢を繰り返しており体調が優れず、もっぱら全国の家庭裁判所の設立に走り回っていたのは最高裁事務総局事務次長の五鬼上堅磐(ごきじょう・かきわ)と言う人物でした。
さらに家庭裁判所の設立に難題が山積していました。裁判所の管轄で戦後にできた家事審判所と、検察の管轄で戦前から存在していた少年審判所との反りが合わないと言うこともさることながら、家庭裁判所に送致される少年たちをどこに収容するのかと言う「土地問題」にも悩まされていました。戦後の混乱により、少年観護所・少年鑑別所・少年院のいずれ不足していたのです。
逆風が吹く中でも1949(昭和24)年1月1日から家庭裁判所を発足させることはGHQからの厳命です。五鬼上堅磐は最高裁判所秘書課長で、アメリカの家庭裁判所を視察したことがある内藤頼博と家庭裁判所発足に向けた準備を進めます
そんな中に急遽、最高裁判所内部に設置されたのが最高裁家庭裁判所設立準備室です。
内藤頼博とは 「殿様判事」 久藤頼安(ライアン)のモデル
虎に翼に登場する家庭裁判所設立準備室との違い
虎に翼では家庭裁判所設立準備室室長として、多岐川幸四郎という宇田川潤四郎・初代最高裁家庭局局長がモデルとなったキャラクターが責任者をつとめています。
実際に苦労したのは五鬼上堅磐・内藤頼博・市川四郎
ですが宇田川潤四郎は1948年当時、京都少年審判所所長をつとめていて宇治に少年院用の広大な土地を確保することに成功していたものの、全国の家庭裁判所設立に向けての仕事にはタッチしていません。宇田川は事前に最高裁事務総局次長の五鬼上堅磐から、最高裁家庭局局長ポストの内示を受け、しぶしぶ応じたというほどです。
虎に翼では多岐川幸四郎が家庭裁判所設立にあたって難渋する場面があります。しかし実際に設立準備で苦労したのは用地を確保することに奔走した五鬼上堅磐や、家庭局幹部の人選をした内藤頼博、GHQに家庭裁判所のための予算を提出した市川四郎という人物だったと考えられます。