虎に翼に登場する東京家事審判所所長の浦野(野添義弘さん)という人物は、実在した佐伯俊三・東京家事審判所長をモデルにしていると考えられます。
家事審判所や虎に翼に登場する浦野にまつわるエピソードは虎に翼のネタ本とも言える「家庭裁判所物語」を参考にしながらご紹介します。
家事審判法にもとづく家事審判所とは
家事審判所とは1948(昭和23)年に全国にある地方裁判所の支部として設置されました。家事審判所の根拠となる法律は、1947(昭和22)年に作られた家事審判法です。扱うのは離婚や遺産分割など、現在の家庭裁判所の家事部に相当する裁判所です。
戦前に存在した明治民法では結婚した女性を「無能力者」とみなし、夫の同意なく、契約などの法律行為はできないとされていました(虎に翼の佐田寅子が「はて?」といって自分の怒りを表す旧民法の規定でもありました)。しかし結婚した女性を「無能力者」とする規定は、法の下の平等や男女平等を保障した新しい日本国憲法に反します。
そこで民法は1947年に改正され、違憲の条文は取り払われ、合わせて家事審判法も制定されました。
家事審判所から家庭裁判所へ
1948(昭和23)年5月、最高裁判所はGHQに対して家事審判所を地方裁判所の支部の扱いから、独立した裁判所としてほしいと求めています。家事審判所は「地裁の支部扱い」のまま続くと、独立した設備や人員を持つこともできず増え続ける家庭の問題に対して対応ができないと考えていたからです。
しかしこの時点で少年審判所が「少年裁判所」に新しくなることがほぼ決まっていました。ここで最高裁判所の求めに応じてしまうと「少年裁判所」と「家事裁判所」という2つの新しい裁判所が出来上がってしまいます。当時の裁判所には、2つの新しい裁判所に対応する予算を捻出する余裕はありませんでした。
GHQはそのことをよく理解していて、最高裁判所に対して逆提案を行います。「少年と家事を一緒にしてファミリー・コート(家庭裁判所)を作らないか?」と。このときGHQから説明を受けた最高裁判所の幹部は家庭裁判所のイメージができませんでしたが、アメリカの家庭裁判所を視察したことがある内藤頼博(虎に翼の「ライアン」こと久藤頼安)だけが唯一、GHQからの提案を即座に理解できたと言われています。
虎に翼 ライアンとは
家事審判所と少年審判所の違い
内藤以外の最高裁首脳陣がGHQの家事審判と少年審判を一緒にすることが理解できなかったのは、管轄や制度上の手続きの違いがあります。家事審判は民事手続きである一方で、少年審判は刑事的手続きです。管轄もそれぞれ家事審判は最高裁判所で、少年審判は法務庁(現在の法務省)で異なっていました。
また家事審判所は戦後の1948年に発足した組織である一方、少年審判所は大正時代から続く組織です。少年審判所には「自分の方が先輩である」という感情的な思いもありました。
このため当時、家事審判所と少年審判所を合併させることは、全く異なる概念のものをくっつけることで、新しくできる予定であった「家庭裁判所」は当時の日本の法曹の常識からはかなりかけ離れた裁判所とみなされていました。
少年審判所とは
東京家事審判所所長の浦野と東京少年審判所所長の壇の争いは史実がモデル
虎に翼では東京家事審判所所長の浦野(佐伯俊三がモデル)と東京少年審判所所長の壇(横山一郎がモデル)は、家庭裁判所設立に際して激しく対立します。浦野も壇も自分たちの審判所にいかに多くの問題が持ち込まれていることを主張するのみで、お互いが対等の合併をして家庭裁判所を新しく設立するようにはとても見えません。
そこに多岐川幸四郎が突然「家庭裁判所は愛の裁判所である」という説得を始めて、さらに事態が混乱するという朝ドラならではの場面が見られます。
多岐川幸四郎のモデルとなった実在の宇田川潤四郎は、東京家事審判所所長の佐伯俊三や東京少年審判所所長の横山一郎に対して「家庭裁判所は愛の裁判所である」という使って説得したということはないと考えられます(家事審判所と少年審判所を合併させるかどうか東京で議論されていた頃、宇田川潤四郎は京都少年審判所所長をしていたから)。
しかしながら虎に翼で描写されたように家事審判所と少年審判所の間で、対等に合併して家庭裁判所ができることにお互いにわだかまりがあったことは史実であるようです。