ライアンがつけたあだ名はサディ ハーシー タッキー
ライアンとは「殿様判事」こと久藤頼安(沢村一樹さん)のあだ名です。他にも久藤頼安は、民事局民法調査室の佐田寅子(伊藤沙莉さん)のことをサディ、小橋(名村辰さん)のことをハーシー、家庭裁判所設立準備室室長の多岐川幸四郎(滝藤賢一さん)のことをタッキーと、部下や同僚にいかにも英語風と行った名前をつけていきます。
佐田寅子も小橋のことをハーシー
- ライアン → 久藤頼安
- サディ → 佐田寅子(民事局民法調査室)
- ハーシー → 小橋(民事局民法調査室)
- タッキー → 多岐川幸四郎(家庭裁判所設立準備室室長)
影響された佐田寅子は同僚で明律大学法学部の同級生であった小橋を「ハーシー」と呼ぼうとしますが、「小橋でいい」とたしなめられます。
殿様判事 久藤頼安 久藤藩藩主のお家柄 小橋がつけたあだ名は「殿」
久藤頼安は物腰が柔らかく初対面の寅子には進駐軍の人間かと間違われるほどさっっそうとしていますが、純然とした日本人です。ではなぜこのようにアメリカ人のような振る舞いをするのでしょうか?
久藤頼安は太平洋戦争が開戦する前にアメリカの裁判所を視察し、アメリカのことを褒める褒めるどころかアメリカの「ア」の字も言えないご時世に、アメリカの素晴らしさを吹聴する「アメリカかぶれ」で通っていました。
それでも久藤頼安が裁判官をクビにならなかったのは、単に変わり者で通っていただけではなく、出自が「お殿様」であるともっぱらの噂です。「虎に翼」では彼の家は久藤藩藩主の家柄という設定です。
そのせいか民事局民法調査室の小橋は、久藤頼安のことを陰で「殿」と呼んだりしています。
久藤頼安のモデルは内藤頼博 子爵 旧・信州高遠藩出身 1940年にアメリカ視察
朝ドラの中で「殿様判事」と言われる久藤頼安はかなり目立つ存在ですが、この久藤頼安と言うキャラクターは、かつて裁判官を務めていた内藤頼博(ないとうよりひろ)がモデルであると考えられます。
以下は戦後の日本で家庭裁判所設立の経緯を記した「家庭裁判所物語」を参考にしたエピソードです。
内藤頼博が「殿様判事」と呼ばれる理由
まず内藤頼博は戦前は華族に列し、子爵の爵位を授爵していました。彼の祖先は代々、信州高遠藩の藩主を務めた家柄で、頼博は内藤家第16代当主の座にありました(東京都新宿区の内藤町という地名は内藤家の藩邸があったことから由来する)。このことから「虎に翼」の久藤頼安だけでなく、実在した内藤頼博も「殿様判事」と言われていたようです。
内藤頼博が「変わり者」と呼ばれる理由
内藤頼博の息子である内藤頼誼(ないとうよりよし)氏によると、頼博は「本当のリベラリスト」であったと言われています。頼博の妻は西郷従道(元帥海軍大将)の孫で、頼誼氏の母方の兄弟は全員が軍人、頼博の弟も軍人という家柄です。
頼誼氏も海軍兵学校に入学しようと、父・頼博に相談したところ「お前、馬鹿か」と一蹴されたそうです。身内にたくさん軍人がいる家系で、息子が軍人に志願したら馬鹿扱いするというのはかなりの変人でしょう。
さらに実在した内藤頼博は1940(昭和15)年にアメリカ・ニューヨークで家庭裁判所を視察しています。ニューヨークのマンハッタンにある家庭裁判所は、内藤頼博の裁判官としての人生を決定づけるものだったと言います。
内藤頼博 ニューヨークの家庭裁判所を戦前に視察
ニューヨークの家庭裁判所の建物内に明るい光が入り込む作りは、暗い印象を与える日本の裁判所の作りとは真逆ででした。また職員は法律の相談だけではなく、家庭状況・経済状況・人種・宗教など親身に聞き取り、かつ手早くタイプライターでまとめていったと言われています。
内藤頼博はこのアメリカの家庭裁判所という制度に夢中になり、朝から晩まで通うようになり、一週間もすると裁判所の職員から「あなたはここで立派に働けますよ」と言われるほどになりました。
家庭裁判所は市民に親しみやすい作りとなっていただけではなく、医師が常駐する医務室も存在し当事者の健康状況や精神状況もチェックできるという科学的な性質にも、内藤頼博はひきつけられたと考えられます。
久藤頼安と内藤頼博の共通点
このように「虎に翼」の久藤頼安は単に突拍子もない変人というわけではありません。実在した裁判官の内藤頼博という人物の裏付けがあって出来上がったキャラクターであると考えられます。
久藤頼安と内藤頼博のまとめ
- 殿様判事(久藤頼安は久藤藩藩主の家柄で内藤頼博は信州高遠藩藩主の家柄)
- 変わり者(内藤頼博は軍人を志願する息子を馬鹿扱い)
- 戦前にアメリカの裁判所を視察(内藤頼博はニューヨークの家庭裁判所に通い詰める)