轟法律事務所に逃げ込む戦災孤児の道男
虎に翼「第12週 家には女房なきは火のない炉の如し」では、小橋浩之(名村辰)が持っている財布のスリを企んだ道男という16〜17歳の少年が登場します。道男(和田庵)は10才ぐらいの子どもと共謀してスリを働き、「カフェ燈台」があった「轟法律事務所」に逃げてきます。
1945年3月の東京大空襲以来「カフェ燈台」がある上野周辺は、どこも戦災孤児や浮浪児たちで溢れかえっているようです。戦争で親を亡くした子供たちは世間から目のかたきにされ、警察によって次々と連行されているようです。しかし施設に連れていかれてもどこも食料不足のため、戦災孤児や浮浪児たちは施設を脱走し街に舞い戻ってくるという現状です。
その中でも虎に翼に登場する道男という少年は、親の愛情に恵まれず東京大空襲の中、1人だけ置き去りにされたという設定です。
虎に翼に登場する戦災孤児や浮浪児たちのモデル
虎に翼のドラマに登場する道男や上野周辺にいた戦災孤児や浮浪児たちは、具体的に「この人物である」と特定することはできません。ですが虎に翼のネタ本とも言える「家庭裁判所物語」を読んでいると、当時、東京家庭裁判所や横浜家庭裁判所が管轄していた地区に存在していた戦災孤児や浮浪児たちがモデルになっているのではないかと考えられます。
東京家庭裁判所に送られる戦災孤児や浮浪児たち
「家庭裁判所物語」によると、1949(昭和24)年の少年に刑法犯による検挙者は1万人を超え、東京家庭裁判所にも毎日のように「トラックいっぱいの50~60人の少年が送られてきた」と言われています。当時の警察は明らかに小さい子どもを除いては、「家裁ならなんとかしてくれるだろう」ということで検挙した少年たちをどんどん家庭裁判所に連れてきていたようです。
親と失ってしまった少年たちは空腹を満たすために仕方なく盗みを働く一方で、家庭裁判所にはそのような路上に溢れる少年たちを収容する能力はありません。施設も職員も食料も全てが不足し、その結果少年たちは脱走を繰り返すという有様だったようです。まさしく虎に翼の道男やタカシたちが経験した通りの様子でした。
横浜家庭裁判所と野毛地区 調査官たちの行動
「家庭裁判所物語」では東京家庭裁判所以外にも、当時の横浜家庭裁判所とその管轄地区の1つである野毛地区を例として挙げています。
当時の野毛地区も戦災孤児や浮浪児たちが溢れ、警察が横浜家裁に連れてきても、収容能力が貧弱であるため、少年たちは再び野毛地区に舞い戻っていくという有り様でした。ただ当時の神奈川県は横浜市磯子区の若草寮、保土ヶ谷区の伸愛園、川崎市の新日本学園など民間の「補導委託先」が比較的充実していました。
それでも民間の施設にも限りがあり、引き受け手の見つからない少年もいたそうです。そんなとき調査官の中にはこうした少年を自分の家に連れて帰って、しばらく面倒を見ることもあったそうです。
道男を「笹寿司」に託す寅子 補導委託先と試験観察
虎に翼でも佐田寅子は戦災孤児の道男を猪爪家に連れて帰って、家庭裁判所による処分決定が下るまでの間、面倒を見ることになります。
寅子は道男を預かったことで、浦野と壇に大目玉を喰らいますが、実際の横浜家裁で調査官が戦災孤児や浮浪児たちの面倒を自分の家で見たことは、本来許されないことで公式の記録にも残っていないそうです。
当時の家庭裁判所の調査官たちは全国的に「補導委託先」を探すことに注力し、民間施設・商店街の魚屋やうどん店などの個人商店に「試験観察」として少年たちを住み込みで働かせるようにしました。店の働き手になれば、「不処分」の決定をしてそのまま就職させていました。横浜家庭裁判所では裁判官自らが企業や商店を回って、補導委託先を増やしています。
「裁判官自らが企業や商店を回って、補導委託先を増やす」という点は、寅子が「笹寿司」のおじさんに頼んで、道男を住み込みで働かせてもらうという描写と共通するものがあるでしょう。