虎に翼に登場する東京少年審判所所長の壇(だん)(ドンペイさん)という人物は、実在した横山一郎・東京家事審判所長をモデルにしていると考えられます。
少年審判所や虎に翼に登場する壇にまつわるエピソードは虎に翼のネタ本とも言える「家庭裁判所物語」を参考にしながらご紹介します。
少年審判所とは
少年審判所とは1922(大正11) 年に制定された旧少年法にもとづき、司法大臣の監督を受ける行政機関で裁判所に附属する機関ではありませんでした。旧少年法が対象とする年齢は18歳未満で「検察官先議」という扱いでした。つまり裁判官ではなく検察官が少年の扱いを判断し、検察官によって「保護処分が適当」と判断された少年たちが少年審判所に送られていました。
戦前の少年審判所
この少年審判所では多様な保護処分ができることになっており、のちに少年院と言われる矯正院に送致するだけでなく、寺院や教会に少年を預けるなど九種類の保護処分がありました。
ただし少年審判所が設置された地域は東京と大阪だけであり、旧少年法の管轄区域は東京府・神奈川県・大阪府・京都府・兵庫県に限定されており、管轄外の少年が犯罪を犯しても少年審判を受けさせることはできません。戦後に18箇所まで少年審判所は増加しますが、急増する戦災孤児が犯す少年犯罪の数には全く対応できません。
少年院の中には戦争の空襲も受けたところもあり、少年たちの処遇を満足に行うこともできず、また食糧不足は深刻を極め、脱走などは日常茶飯事であったようです。
少年審判所から家庭裁判所に
こうした少年審判所の存在は人権尊重の精神を謳った新しい日本国憲法とは相容れないものがあります。戦前のように司法省のような行政官庁が人間の自由を拘束することは憲法の精神に反するということで、少年に対する保護処分は裁判所が行うものとし、1948(昭和23)年7月に新少年法が成立し、翌1949年1月から家庭裁判所の設置とともに施行されることが決まりました。
少年審判所の不満 虎に翼の壇が代弁
家庭裁判所の設置には少年審判所関係者にとって大きな不満が2つありました。従来の少年審判所は旧司法省の行政機関であったにかかわらず自分たちが裁判所の機関にさせられてしまうことと、戦後に新しくできた「新参者」の家事審判所と対等合併させられることです。
前者の不満は少年審判所が少年院のよう執行機関と切り離されることへの抵抗で、後者の不満は多分に感情的なものでした。虎に翼の第11週「女子と小人は養い難し」では東京少年審判所所長の壇と東京家事審判所所長の浦野が、家庭裁判所設立準備室で互いにいがみ合って罵り合う場面が出てきますが、2人の争いはこういった当時の背景を反映したものであると考えられます。
虎に翼 浦野のモデル 東京家事審判所所長・佐伯俊三
BBS運動の学生たちが家庭裁判所の設立を促進
少年審判所と家事審判所の争いは1949(昭和24)年1月に家庭裁判所が新しく発足する直前まで続いていたようです。ですがそれに先立つ1948(昭和23)年11月に東京で開催された「少年保護に関する全国学生代表協議会」で、両者の関係は改善し始めます。
この協議会では全国の各地域でBBS運動に従事していた学生の代表たちと少年審判に関する当局者が一堂に会し、戦災孤児や浮浪児の世話や資金を賄うためのチャリティーの状況などが報告されました。
またボランティアの学生たちからは活動の報告だけではなく、家事審判所と少年審判所が家庭裁判所の設立に関して当局内部の争いがあることを指摘され、実在した横山一郎・東京少年審判所長をはじめとして、学生たちの真摯な活動に感動していた裁判所の幹部は大変恥ずかしい思いをしたと伝えられています。
この「少年保護に関する全国学生代表協議会」をきっかけとして、少年審判所と家事審判所の争いは少なくなり、家庭裁判所の設立は大きく前進したと言われています。
BBS運動とは
虎に翼 弟の直明が家庭裁判所の設立に貢献
虎に翼の第11週「女子と小人は養い難し」では佐田寅子の弟である猪爪直明が1948(昭和23)年12月に家庭裁判所設立準備室に訪れ、自分たちのBBS運動を家庭裁判所の関係者に知ってほしいと申し出ます。この活動内容に感動した東京少年審判所所長の壇と東京家事審判所所長の浦野は感動し、両者のわだかまりは一気に氷解します。
この場面はもちろん前述した「少年保護に関する全国学生代表協議会」での実話を元にしたエピソードであると考えられます。