BBS運動を手本とした東京少年少女保護連盟
虎に翼の猪爪直明が参加している学生グループ「東京少年少女保護連盟」は、アメリカのBBS運動(ビッグブラザーズアンドシスターズムーブメント)を手本とする、非行青少年たちの保護と更生を目的とした学生たちによるボランティア団体です。
虎に翼で登場する「東京少年少女保護連盟」は実在した「京都少年学生保護連盟」や、「少年保護に関する全国学生代表協議会」がモデルになっていると考えられます。
BBS運動は“BigBrothersandSistersMovement”の略称である。一九〇四(明治三七)年にアメリカで、ニューヨークの少年裁判所に勤務していた若い書記の提唱によって始まった。学生など若者たちが、兄や姉のように少年少女と一緒に遊び、相談に乗り、さらに非行防止の指導を行うボランティア活動である。青年自身が組織を作り運営することが特徴だった。日本では戦後しばらく、直訳して「大兄姉運動」とも呼ばれた。
清永 聡. 家庭裁判所物語 (Japanese Edition) (pp.26-27). Kindle 版.より
虎に翼と京都少年保護学生連盟とは
「虎に翼」の猪爪直明によると、BBS運動と多岐川幸四郎についてこのように評価しています。
それ(BBS運動のこと)を日本に初めて取り入れた人だよ。たしか京都の少年審判所に学生たちを呼んで、関西の学生を団結させたらしいよ。非行少年たちを学生に世話させたり、審判所でバザーをやることで周りの住民の理解を得たり……非行少年たちの更生のために尽くした人なんだ」
吉田 恵里香,豊田 美加. NHK連続テレビ小説 虎に翼 上 (p.263). Kindle 版.
以降は虎に翼のネタ本とも言える「家庭裁判所物語」の内容を参考にしてご紹介します。
実際に多岐川幸四郎のモデルとなった宇田川潤四郎は、日本におけるBBS運動の生みの親と言われています。宇田川潤四郎は日本の敗戦後、満州からの引き揚げ直後に靖国神社の近くで買った「米国の少年裁判所」という本で、アメリカにおけるアメリカにおけるBBS運動の存在を知ります。
宇田川潤四郎の呼びかけに応じた立命館大学の永田弘利
もっとも京都におけるBBS運動を「京都少年学生保護連盟」にまで育てあげたのは、宇田川潤四郎の思いつきだけで出来上がった組織ではありません。猪爪直明のような学生が、本当に「京都少年学生保護連盟」を運営していました。
当時、立命館大学の3年生だった永田弘利という学生はBBS運動という名前こそ知らなかったものの、龍谷大学の学生たちと一緒に子どもたちのための紙芝居や人形劇を定期的に開く活動を続けていました。
その永田は京都府庁に「年齢的にも心情的にも少年に近い青年たちが戦災孤児に手を差し伸べて何かできるのではないか」と手紙で投書したところ、その手紙が回り回って京都少年審判所長の宇田川の元に届いていました。宇田川はこの永田に声をかけ「学生たちで力を集めてBBS運動をやらないか」と持ちかけました。
戦災孤児たちを支援する学生の輪は大谷大学、龍谷大学、京都府立医科大学、立命館大学、同志社大学などに広がり、1947(昭和22)年2月22日に京都女子専門学校の講堂で「京都少年保護学生連盟」の発足式が行われました。
虎に翼と少年保護に関する全国学生代表協議会とは
「虎に翼」では猪爪直明が所属する「東京少年少女保護連盟」が家庭裁判所設立準備室に、自分たちの活動を知ってほしいと陳情に訪れる場面があります。このとき直明はすでに東京家事審判所長の浦野と東京少年所長の壇がいがみあって、なかなか家庭裁判所の設立がスムーズに進んでいないことを知っていました。
そのことに心を痛めていた直明はあえて自分たちの活動を家庭裁判所設立の関係者たちに伝えて、より多くの子どもたちを救う方向に制度が向かうよう買って出ます。この後、家事審判所と少年審判所が合併して家庭裁判所ができることに反対する声はなくなっていくという展開です。
「学生が裁判所関係者を説得する」という描写はある程度、実話をモデルにしています。この話についても「家庭裁判所物語」を参考にさせていただきます。
少年保護に関する全国学生代表協議会が少年審判所と家事審判所の合併を促進
1948(昭和23)年11月、東京で「少年保護に関する全国学生代表協議会」が開催されます。東京・大阪・松江・静岡など全国それぞれの地域でBBS運動を展開していた学生たちの代表が集い、宇田川潤四郎が呼びかけた「京都少年保護学生連盟」からも2人の学生が参加していました。
どの地域から来た学生たちも金銭的には恵まれなくとも、戦災孤児や非行少年のために宗教団体や民間団体と連携して真剣に取り組んでいる様子が発表された一方で、少年審判所からの行政からの協力は少ないということが報告されます。
さらに行政や司法の側で組織の対立があることを見抜かれ、家庭裁判所設立に関わる幹部たちが大変恥ずかしい思いをしたそうです。最終的には少年審判所と家事審判所の合併に最も反対していた東京少年東京少年審判所長の横山一郎も頭を下げる事態となり、この頃から少年審判所と家事審判所の合併に反対する声は少なくなったと言われています。